経営の戯言

経営に関する戯言をつらつらと

Facebookやブログに食べ物や贅沢品をアップする経営者は世の中の流れをわかってない

資本主義の崩壊…

といってしまうと言いすぎかもしれないが、多分、そんなことはない未来が私たちの前には待ち構えている気がして仕方がないのだ。特に、先進国に生きる我々にとってはそれほど遠くない未来であろうと思う。

これが言い過ぎだとしても、ブログやFacebookTwitterInstagramなどを介して容易につながることが出来るようになった昨今では職種や経歴、クラスタに関係なく、その生活を垣間見ることができるようになった。だからこそ、表題通りFacebookやブログに食べ物や贅沢品をアップする経営者は世の中の流れをわかってないといえるだろう。

それについて、英国の理論物理学者スティーブン・ホーキング博士が警鐘を鳴らしている。

「私にとって交流のための技術を使用する可能性は正真正銘の解放となり、私はこれなしに自分の仕事を終えることは決してできないだろう。しかしこれはまた電話を持っている全ての人にとって、最も貧しい人々にとってさえも、最も裕福で、最も成功している人たちの生活を観察することを可能とする」 引用

 的を得ているどころの話ではない。私が昨今感じていた違和感を見事に文章化してくれていた。

人は妬み、恨み、憎悪する生き物だ。それが例え身近な人物に対してでも変わることはない。そしてどの時代も変わらないのだ。であるとするならば、すべてのクラスタがつながることが出来てしまう時代が来たのであれば、自分からそういった情報を上げるのを控えれば良いのだ。世の中の流れは不可逆だ。であるとすれば、自分自身が変われば良い。それだけのことだ。

そう、真っ赤なフェラーリやロングマフラーがかっこいいとされていた時代の終焉だ。

「言わなくても解るよね?」の功罪

「言わなくても解るよね?」

これは魔法の言葉であり、経営者、意思決定者、人を教える人間が最も言ってはいけない言葉の一つだ。

人は"言わなければ解らない"当然だ。当人の生まれ変わりでもあるまいし、生まれた場所、教育、環境が同じ人など皆無に等しいのだからね。

企業が小規模、つまり気の合う仲間の集まった創業期(感覚値だが、2~7人位まで)であればこれはある程度成り立つだろう。阿吽の呼吸というやつかもしれない。ただ、創業者の目が届かなくなった二桁のメンバーが加入しだした頃にこの問題は発芽する。そして、それらのメンバーを否定しだす人間が現れるのもこのころだ。

・だからあいつは…

・学歴がね…

・採用したのだれだよ…

などなど。さまざまな罵詈雑言が飛び交い、新メンバーを否定しだすだろう。

これらは教える側の脳内に「言わなくても解る」=「出来る人」という意味不明かつ、論理破綻している方程式が成り立っているからである。こういう上司がいる企業は危うい。

「言わなくても解る」というのは幻想だ。「言わなくちゃわからない」のが普通なのだ。だからこそ、誰にでもわかる、前提条件をなるべく排除したルールやガイドラインが必要になってくるのだ。

・普通は…

・当たり前…

・一般的には…

・私だったら…

これらの用語を無意識レベルでよく使っていませんか?これこそが企業の危険信号なんだよ。

領収証を切らない上司や社長が男前だって?

領収証を切らない上司が男前だって?

ばかじゃないか。何もわかってない。切らないのではなくて、切れないのだ。もしくは自分の決済の枠を君相手では切ることができない、更に言えば勿体無いのだ。勿体無いから君相手では使わないのだ。

 

領収証を切らない社長が男前だって?

そんなわけないだろ。節税をすることは経営の一部であり、これをおざなりにするのは経営の怠慢だ。ありとあらゆる節税対策を行い、その上で会社に潤沢なキャッシュを残す、もしくは直ぐにキャッシュに変換できるもの(車、保険などが代表例)を取り入れる。何時何時キャッシュが必要になるのかなんて誰にもわからない。その時のためにしっかりと手元に残す。それが経営だ。領収証を切らないのはわけの分からない見栄かただ馬鹿なだけだ。

 

繰り返すが、君は何もわかってない。

豊かさとは本当に選択肢の数、幅なのか?

ずっと信じていたものがある日突然崩れ落ちることがある。人間関係しかり、宗教しかり、資本主義しかりだ。私にもそれがここ数日で舞い降りたので書いておく。

豊かさとはなにか?その答えを私は持っていた。タイトルの通り、選択肢の数、幅だ。選択肢があればあるほど人は豊かになっていく。その為のきっかけとしてお金は少ないよりは多いほうがいい。

沖縄にいきたい。あんな車に乗りたい。牛角じゃない焼肉が食べたい。こんな洋服を着たい。それをノータイムで叶えられる手段、それがお金であり、お金の数で選択肢の数、幅が広がることは当然だし、個人のスキルによっても仕事の選択肢が広がるという意味において、スキルを付けることには意味がある。そういったことなどによって人は豊かになるはずだと確信めいたものを持っていた。これが持論だった。

ところが2017年に入り、多くの方々と話しているときにふと気づいてしまった。選択肢の数、幅で幸せになれる人は、その選択肢を活かせる人だけなのだと。体感値で申し訳ないが、それは世の中の1割程度の人だろう。

残りの9割は自発的に活動をすることはほとんど無く、与えられた仕事を淡々とこなす人だ。この人達にはわかりやすい目標、指標、わかりやすい大義名分さえあれば十分で、自分の仕事や目標に対して特に問題意識を感じず、いや、感じてたとしても大手を振って変えようとは思わないだろうが、それを粛々とこなしていくだけなのだ。

この手の人達に選択肢を与えるのは拷問に近い。これまで使わなかった脳の部位を強制的に使わされ、普段取らないような選択をするようになる。これはストレスといってもよいかもしれない。

宝くじの例を出そう。宝くじが当たった人の末路を皆ご存知だろう。慣れない不動産や投資に手を出し、自己破産、最悪の場合は自殺まで引き起こしているニュースには枚挙に暇がない。これこそが急に選択肢を与えられてしまった選択肢の扱いに慣れていない人間の末路だ。

つまり、"普通の人"に選択肢を与える事は必ずしも豊かさになるとはならないのだ。

私はこれに気づいたときに、これまでの行動を改めた。選択肢があれば豊かになる人と、そうでない人を明確に線引して接しなければならないし、見極めなければいけないのだ。